超強酸中におけるプロトン伝導メカニズムの第一原理MDシミュレーション#
燃料電池の性能を決定する重要な要素の一つに、電解質膜内のプロトン(H+)伝導性が挙げられます。このプロトン伝導のメカニズムを原子レベルで解明することは、より高性能な燃料電池材料を設計する上で不可欠です。本稿では、第一原理計算ソフトウェアAdvance/PHASEを用い、燃料電池用電解質膜Nafion®のモデル物質である超強酸「トリフルオロメタンスルホン酸(TfOH)」が水中で電離し、プロトンが伝導する様子を第一原理分子動力学(MD)シミュレーションによって再現した事例を紹介します。
Keywords: 第一原理MDシミュレーション, プロトン伝導, グロータス機構, 燃料電池, Nafion, 超強酸, TfOH
背景:プロトン伝導とグロータス機構#
水溶液中や高分子電解質膜中のプロトンは、単独で移動するのではなく、水分子を乗り移りながら伝導していくと考えられています。この特異な伝導メカニズムは「グロータス機構」として知られており、プロトンが隣接する水分子に次々と乗り移る「プロトンホッピング」がその中核をなします(図1)。このダイナミックな過程を正確に追跡するには、原子・電子レベルの挙動を時間発展的にシミュレートできる第一原理MD計算が極めて有効です [1]。
図1. プロトンホッピングによるグロータス機構の模式図。
計算モデルと手法#
本シミュレーションでは、TfOH分子1つと水分子27つをセル内に配置した系を計算モデルとしました(図2)。Advance/PHASEを用い、密度汎関数理論(DFT)に基づき、まず系の構造を安定化させた後、第一原理MD計算を実行しました。計算は、燃料電池の実用温度に近い303 K(30℃)と353 K(80℃)の二つの温度条件で行い、温度によるプロトン伝導挙動の違いを比較しました。


図2. 計算に用いたモデル
結果と考察#
超強酸の電離とプロトンホッピングの可視化#
第一原理MDシミュレーションの結果、TfOH分子の末端にあるプロトン(H+)が自発的に解離し、近傍の水分子に移動してヒドロニウムイオン(H3O+)を形成する「電離過程」を再現することに成功しました。さらに、生成したH3O+が、そのプロトンを隣の水分子へと受け渡す「プロトンホッピング」が連鎖的に発生する様子も観測されました。以下の画像をクリックすると、TfOHから解離したプロトンが水分子ネットワークを次々と伝っていくシミュレーション動画をYouTubeでご覧いただけます。
動画1. 超強酸の電離過程の第一原理シミュレーション(画像をクリックするとYouTubeで再生)
温度によるプロトン伝導メカニズムの変化#
シミュレーション結果を詳細に解析したところ、温度によってプロトン伝導の主要なメカニズムが異なることが明らかになりました。303 Kでは、プロトンがH3O+イオンとして比較的安定に存在し、イオン全体が移動する「ビークル機構」の寄与が見られました。一方、より高温の353 Kではプロトンホッピングが活発化し、「グロータス機構」が支配的になることが示唆されました。
この温度依存性は、図3のグラフからも視覚的に確認できます。このグラフは、系のポテンシャルエネルギーの時間変化を示しており、そのグラフ中の鋭いトゲ(スパイク)が、プロトンホッピングが起きた瞬間を示しています。低温の303 K(青線)でも、プロトンホッピングは起きているように見えます。それに比べ、高温の353 K(赤線)では、プロトンホッピングを示すピークがより頻繁に、かつ大きく現れていることが一目瞭然です。これは、温度が高いほどプロトンが水分子の束縛から逃れてホッピングしやすくなるためと考えられます。
図3. ポテンシャルエネルギーの時間変化(303 Kと353 K)。高温(赤線)の方が、プロトンホッピングを示すエネルギーの急な変化がより頻繁に起きていることがわかります。。
プロトンホッピングの定量的評価#
Advance/PHASEの特長的な機能である電荷追跡解析を行ったところ、プロトンホッピングに関わる水素原子の電荷量に明確な特徴が見出されました。通常、水分子内の水素原子の電荷は+0.3未満ですが、TfOHから解離し、ホッピングを開始するプロトンは電荷が+0.3を超える状態へと変化することが分かりました(図4)。この電荷量の変化を指標とすることで、複雑なMDシミュレーションの中からプロトンホッピングの瞬間を定量的に特定し、その頻度や経路を詳細に分析することが可能になります。
図4. 水素原子の電荷変化。TfOHから解離したプロトンは水分子のプロトンよりも高い正電荷を帯びており、これがホッピングの駆動力となります。
まとめ#
本解析では、第一原理MDシミュレーションにより、超強酸TfOHの水溶液中におけるプロトンの電離および伝導過程を原子・電子レベルで明らかにしました。シミュレーションからは、プロトンが水分子間を乗り移るグロータス機構が再現され、その振る舞いが温度に依存することが示されました。さらに、水素原子の電荷状態を追跡することで、プロトンホッピングを定量的に評価する手法を確立しました。これらの知見は、燃料電池の性能向上に不可欠な電解質膜の材料設計 [2] に、理論的かつ重要な指針を与えるものです。
参考文献#
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D. Marx, M. E. Tuckerman, J. Hutter, and M. Parrinello, The nature of the hydrated excess proton in water, Nature 397, 601 (1999).
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K. D. Kreuer, S. J. Paddison, E. Spohr, and M. Schuster, Transport in Proton Conductors for Fuel-Cell Applications: Simulations, Elementary Reactions, and Phenomenology, Chemical Reviews 104, 4637 (2004).
関連ページ#
- 第一原理計算ソフトウェア Advance/PHASE
- 解析分野:ナノ・バイオ
- 産業分野:材料・化学