原子間力顕微鏡測定の第一原理シミュレーション#
原子間力顕微鏡(AFM)は、物質表面の形状を原子スケールで観察するだけでなく、探針と試料の相互作用を利用して表面原子を操作するツールとしても用いられます。しかし、AFMで観測される像のコントラストや、探針の接近によって引き起こされる表面構造の変化を実験結果のみから解釈することは容易ではありません。本解析では、第一原理計算ソフトウェアAdvance/PHASEを用い、半導体材料として重要なSi(001)表面のAFM測定をシミュレーションし、ナノスケールで起こる物理現象の解明を試みました。
Keywords: 第一原理計算, 原子間力顕微鏡(AFM), Si(001)表面, 構造変化
計算モデル・計算条件#
本シミュレーションでは、AFMの探針とSi(001)表面を現実的な原子モデルで再現しました(図1)。表面は、Si原子が二量体(ダイマー)を形成して再構成したSi(001)-p(2x2)構造を採用し、計算負荷を考慮して5層からなるスラブ模型としました。スラブの最下層のSi原子は水素原子で終端(パッシベーション)し、バルクSi結晶との結合を模擬しています。AFM探針の先端は、化学的に安定なクラスターで近似しました。
図1.Si(001)表面とAFM探針の計算モデル。探針の先端はで近似されています。
計算は密度汎関数理論(DFT)に基づいており、主な計算条件は表1の通りです。
表1.シミュレーションに用いた主な計算条件
項目 | 設定 |
---|---|
交換相関汎関数 | GGA-PBE |
カットオフエネルギー (波動関数) | 15 Rydberg |
カットオフエネルギー (電荷密度) | 60 Rydberg |
k点メッシュ | 2x2x1 |
エネルギー収束条件 | Hartree/Atom |
定高さスキャンにおける探針への力の作用#
まず、AFMの定高さモードを模擬し、探針を表面から一定の高さh=5.0 Åに固定した状態で水平に走査した際に、探針に働く力を計算しました。このシミュレーションでは、探針および表面の原子は動かないものとして固定しています。図2に、Siダイマーを含む領域を走査した際の、探針に働く力のx, y, z各成分の空間分布を示します。
図2.一定高さ(h=5.0Å)で走査した際に探針にかかる力のx, y, z成分の空間分布
z成分は表面からの垂直抗力に相当し、AFMの地形像に対応します。ダイマーを形成しているSi原子の真上で強い反発力が働いていることがわかります。x, y成分は横方向の力(摩擦力)に相当し、ラテラルフォース顕微鏡(LFM)像に対応します。これらの結果から、AFM像のコントラストが表面の原子配列と直接関連していることが理論的に確認できます。
フォーススペクトロスコピーと表面構造変化#
次に、探針を表面の一点(p(2x2)構造のDown dimer原子の直上)で鉛直方向に動かし、探針と表面の距離hと、探針に働く垂直力Fzの関係(フォースカーブ)を計算しました。この計算では、探針の原子は固定し、表面の原子は力が働くことで動けるように設定しています。
図3に得られたフォースカーブと、カーブ上の特徴的な点(A~E)における原子構造のスナップショットを示します。この結果は、AFM探針の力によって表面の構造が動的に変化する様子を克明に捉えています。
図3.フォースカーブ(上)と、各点(A-E)における探針と表面の原子構造(下)。探針の接近・離反に伴い、表面のSiダイマーが反転する様子を示しています。
フォースカーブを詳しく見ると、以下のプロセスが進行していることがわかります。
- A → B: 探針が表面に近づくにつれて、引力(Fz < 0)が徐々に増大します。
- B → C: ある距離(約4.4Å)で力が不連続に変化します。これは、探針からの引力によって表面のDown dimerが引き上げられ、Up dimerへと構造が変化したことを示します(非弾性変形)。
- C → D: 探針を表面から引き離していくと、Up dimerの状態を保ったまま力が変化します。
- D → E → A: さらに引き離すと、ある点(約4.8Å)で再び力が不連続に変化し、ダイマーが元のDown状態へと戻ります。
このように、探針の接近と離反で力の履歴が異なる「ヒステリシス」が明確に再現されました。このダイマースイッチング現象や、それに要する数百pNという力の大きさは、先行研究 [1-3] の理論計算結果とも定性的に良く一致しています。これらの結果は、本シミュレーションが探針による原子マニピュレーションのメカニズムを解明する上で有効であることを示唆しています。
まとめ#
本解析では、第一原理計算ソフトウェアAdvance/PHASEを用い、Si(001)表面のAFM測定シミュレーションを行いました。定高さスキャンによりAFM像の原子スケールでのコントラストの起源を理論的に明らかにするとともに、フォーススペクトロスコピーによって、探針の力で誘起される表面ダイマーの反転現象とそれに伴うヒステリシスを、既存研究と整合する形で再現することに成功しました。本手法は、観測される静的な像の解釈だけでなく、表面原子の構造変化といった動的なプロセスの解析にも有効であることを示しています。
参考文献#
- L. Kantorovich and C. Hobbs, Phys. Rev. B 73, 245420 (2006).
- R. Pérez, M. C. Payne, I. Štich, and K. Terakura, Phys. Rev. Lett. 78, 678 (1997).
- R. Pérez, I. Štich, M. C. Payne, and K. Terakura, Phys. Rev. B 58, 10835 (1998).
関連ページ#
- 第一原理計算ソフトウェア Advance/PHASE
- 解析分野:ナノ・バイオ
- 産業分野:材料・化学